SOTAのSoul Journey 第6話「禁じ手と暴利」

数年前、久しぶりに 
鹿児島市内にある玉龍山麓の島津家墓地を訪れました。

とても閑静な場所です。

第六話では、薩摩藩の財政改革について書きたいと思います。


薩摩藩の財政は、まさにV字回復そのものでした。

その前に、少し横道にそれますが、
薩摩藩の主要な施設の位置関係のお話をしたいと思います


ここの玉龍山一帯には、江戸時代まで福昌寺がありました。



寺は島津家の菩提寺でした。

明治の廃仏毀釈で取り壊され、跡地に市立の高校が建てられました。



私と妹と弟、そして父も、この高校を卒業しました。

偶然、同じ母校になったと思っていました。

しかし、「先祖の因縁」を知ることになり、
実は島津家からも、
その因縁に気づくようにメッセージを受けていたことがわかりました。

島津家別邸「仙巌園」



島津家墓地は広大な敷地で、意外にも出入りが自由です。
放課後は応援部や吹奏楽部などが練習しています。

墓の門をくぐると、ただならぬ何かを感じる. . .
と訪れたことのある人は一様に言います。


応援部が「北辰(ほくしん)斜め」という応援歌を練習していました。




この歌は、
旧制第七高等学校造士館(鹿児島大学文理学部の前身)の寮歌に由来します

その昔、造士館は薩摩藩の藩校でした。

「北辰」とは北極星のことで、
鹿児島市内では、北の空の仰角(水平線からの高さ)31.36゜に
北極星が位置します。



「北辰斜め」の意味は、
鹿児島は北極星を高く仰ぎ見るような地ではなく、
斜め前に見えるくらいに、南の地にあるということを表しています。


地図上では、
島津家の鶴丸城跡地から南北に引いた線を31.36度の角度で右に傾けると、
福昌寺跡地、島津斉彬を祀る照国神社、
西郷隆盛ら西南戦争の戦没者を祀る南州神社が、ほぼ線上に位置しています。




島津家は鎌倉から薩摩へ本拠地を移してから現在に至るまで、
変わることなく輝き続ける北極星を意識しているように思います。

墓地には、琉球出身者のお墓もあり、
縁者の方がお参りに来られたのでしょうか、植物が供えられていました。


その近くに

薩摩藩家老・調所広郷(ずしょひろさと)

のお墓もあります。

調所広郷(ずしょひろさと)



調所は琉球奉行も歴任しました。
道の島の黒糖政策を強力に推進した人物です。

このころ、薩摩藩は大阪商人から500万両の借金がありました。
利子だけで年50万両あったと言われています。



藩の年収は10数万両。


実質、破綻していました。

調所は、藩主・島津斉興から財政改革を一任されていました。
そして、借金棒引きに等しい禁じ手を使います。

藩主・島津斉興


調所は借金をしている商人たちを呼びました。
古くなった証文(借用証書)を書き直すので、
必ず証文を返すことを約束に、証文を預かりました。

調所は、預かった古い証文を、
商人たちの目の前で燃やしました。



商人たちは 茫然としました。

そして、調所は書き換えた証文を商人に渡しました。



内容は、

500万両の借金を年2万両ずつ250年間、
無利子で返済するというものでした。

完済の年は 2085年になります。


しかし、明治4年に廃藩置県が行われ、
藩が無くなり、返済は終了しました。

商人は武士を斬ることができません。

調所は商人たちに言いました。

「私を殺すなり、生かすなり、好きにせよ」



商人たちは、貸したお金を踏み倒された形になりました。

そして、黒糖政策では暴利を上げることになります。


奄美三島(奄美・喜界島・徳之島)総買い入れが始まり、
島民は奴隷となりました。

のちのち、

沖永良部島、与論島も総買い入れが始まります。

島民は黒糖を抜き取れば死罪、なめればむち打ちの刑となりました。
島役人はサトウキビ栽培の監視にあたりました。




黒糖は高値で取引されるため、代官所役人の黒糖の横領が行われ、
追い討ちをかけるように島民を苦しめました。

この頃、納税軽減の嘆願は 一切認められなくなっていました。

薩摩藩は、ほとんどの借金を踏み倒し、
黒糖での暴利、その他にも、偽金づくり、琉球密貿易と合わせて、
300万両もの蓄えを持つことになりました。




調所は、幕府から密貿易を糺され、
藩主・島津斉興を守るために、自害しました。



そうして、薩摩藩は、
破綻状態から一気にV字回復することになったのです。

明治の世になっても島民は黒糖を搾取されました。

明治政府は砂糖の自由売買を通達しました。



しかし、

明治維新後も独立国状態であった鹿児島県は、
「大島商社」を設立し 黒糖の搾取を続けます。

黒糖の搾取はおかしいと、島民たちは鹿児島県庁へ直訴しました。

しかし、投獄されたり、無理やり西南戦争に従軍させられる者もいました。



西南戦争の2年後、大島商社は解散しました。

鹿児島の士族のために、
西郷隆盛は大島商社の設立に加担していました。

西郷 隆盛



政府の方針に反するため、目立たないように計画されていたのです。

つづく


次回はいよいよ、SOTA家先祖の因縁編・最終話です!